トップ画像はちと気に入っている。 

淫語マニュアルのウェブデザインを少しずつ作り替えてんだけど、ちょっと時間がかかりそうだな。
今はボタン作りをしつつ、ロゴを作成中。
ロゴはなかなか気に入ったのができないねぇ。

あとプログラミングなんだけどperlやPHPを一通り勉強してみたものの、これで何を作ればいいか思いつかないから、これ以上上達しようがない。
メールフォームやBBSにしたって、ネットで探せば自分が作るよりも断然いいものが無料配布されているわけで、これでは創作意欲がわかない。

んで今考えているのはゲーム。
アダルト検索の一発さんが前にブログで紹介していた「女郎育成ゲーム」をやっていて、何気なくそのソースを覗いたらそう難しくはなさそうなんだよね。
JavaScriptで書かれているわけなんだけど、手軽な言語だし動作確認も楽そうだ。
ここは「淫語調教ゲーム」みたいなのが作れないかなぁなんて思ってさ。
Sampleなら今まで貯めた淫語会話がいっぱいあるし、淫語マニュアルに貼ってあっても違和感がないでしょ。

その前にまずリニューアルが先だけど。

それと最近はほとんどアクセス解析を見なくなってきているので、今、解析用のタグを2つ貼っているけど、これこそ自分なりにシンプルなものを作った方がいいんではないかと。
こんなのリファラーとIPがわかればいいしね。
それだけならそんなに難しくないような気もするんだけどどうなんだろうね。

SODにも昔、早坂晃子っていう人がいたよなぁ。 

前の記事で「羞じらい」の話を例に出したけど、「羞じらい」がエロさを醸し出すのは、その人の心情の変わり目にそれが出てくる時ではないか。
そこに剥き出しの意識が顔をのぞかせる。さらにテンパったりしてくれたらもっと引きつけられるだろう。それは立派なドラマだ。

たとえば売れっ子のお女郎さんが恋をしたとする。SEX慣れしているはずの彼女が好きな男の前では意識してなかなか体を開かない。他人の前ではいろんなSEXショーをしていても、好きな人が目の前にいるだけで緊張して体を硬くする。

『椿姫』が純愛ものとして優れているのは、マルグリットが高級娼婦として世のさまざまな享楽と贅沢な生活に身をやつしているという設定が効いているからだ。
そこへ青臭いアルマンと出会い恋に落ちる。彼女の中で無垢な少女と世知に長けた高級娼婦とがぶつかり合い揺れ動く。どちらも紛れもない自分なのだ。そのカオスの中で最後は愛する者のために身を引く。その決断も彼女が高級娼婦として世の中がどういう仕組みになっているかよくわかっているからで、彼女が純愛を貫けば貫くほど彼女のとるべき道は一つしかないかのように話が進んでいく。
身は娼婦だけど、心はうぶな乙女になってしまった女の悲劇でもあるのだ。
身に染みついた娼婦の姦智が心を浸食することもあっただろう。逆に心の中の無垢な思いが体に表れて羞じらいを帯びることもあっただろう。

そういう心と体のギャップからドラマが生まれる。
そしてそこには必ず言葉の変化が現れるはずだ。
それが読者や視聴者の心に風を起こす。

昨日、アップした田中亜弥の最オナはそういう意味で実に残念だった。

田中亜弥はさすが元アナウンサーだけのことはある。最初のコーナー「今日のチンポ」でのアナウンサー口調はかなりよかった。
ここで話される話し方は「カメラの向こうにいる視聴者」に向けられたもので、丁寧でかっちりとしたものになっている。
そこにときどき思わず出る嘆声や感想が入る。これは独り言に近いものだから特に誰かに向けられてはいない。そのままでは視聴者不在になり、アナウンスにはならなくなるから、大なり小なりフォローを入れつつ再度、視聴者に語りかけていく。
つまり公的な発言の中に私的な発言が混じっている状態になるのだが、ただ混じっているのではない。一つの意識のつながりの中での彩りを加えたアナウンスになっている。
こういう技術はやはりキャリアがものをいっているのかもしれない。
SODあたりでやっているアナウンサーものとはわけが違う。

この状態で淫語が入るとさらにギャップが生まれ、そこを評価するユーザーもいるだろう。実際、彼女のアナウンサーとしてのしゃべり方はとてもうまいから、「チンポ」とか「おちんちん」とかの言葉がクリアーに聞こえる。

これが手コキやフェラの時はいいのだが、自分が感じ始めると怪しくなってくる。 特に、マニュアルにも書いたが、本番コーナーの「体験コーナー デカチンポを入れる!!」は途中から視聴者に向けられたレポという設定がボケてしまっている。

当たり前のことではあるが、話し方というのは誰に向けられているのか、どういう場所で話されているのか、何を伝えなくてはならないのかによって違ってくる。職業や身分によっても違うし、公的か私的かによってもちがう。私的な発言でも育ちによってかわってくるだろうし、そこに口癖だとかその時代の流行語などが入ってくることもあるだろう。

いいドラマはいろんな話し方、会話文が巧みに織り込まれている。
それもバラバラに出てくるわけではない。一つの流れというモノがあるのだ。
ドキュメンタリーと違い、創作ものの場合はこのあたりの言葉のつながりを意識してもらわないと不自然に感じる。

ドラマとは、心と体と言葉のギャップから生じ、他人とのギャップから話が展開される。
さらに大きくいえば社会や時代とのギャップにより悲劇や喜劇へと昇華していく。

それは設定でほぼ決まるといってもいい
あとはその線をはずさないで人を転がしていくだけだ。
その設定を生かしきれないとすれば、それは創り手の技術不足なのだろう。
そんなものを買ってまで見せられるユーザーはいい面の皮だ。

小説『椿姫』自体はテンポがのろくて、デュマ・フィスが作家としてオヤジを乗り越えられなかったのはうべなるかなだが、それでもヴェルディのオペラをはじめ、いろんな形で取り上げられるのはとにかく設定がいいからだ。

もっともこの話自体は実際の体験をもとにして書かれたわけだが。

新造も禿も若後家も 年に一度の色まつり 

なんだかんだ言って、オリンピックは見てしまうね。
やっぱりスポーツは面白いなぁ。
金メダルとかとられちゃうと何度もリフレインして見たくなっちゃう。

まぁそうやってテレビを見ながら、どうにかこうにか明日の更新分ができた。


消費社会から格差社会へ―中流団塊と下流ジュニアの未来消費社会から格差社会へ―中流団塊と下流ジュニアの未来
(2007/04)
三浦 展上野 千鶴子

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この間まで『消費社会から格差社会へ』を読んでいたんだけど、こういうのを読んだあと宮本常一の本を読むとなんか中和されていい感じになる。
現代の問題を現代の視点だけで考えてると、とんでもない事態が起こっているように思うんだけど、その「とんでもない」と思わせるような「常識」も昔からあったわけじゃなくて、つい最近出来た価値観だったりする。

たとえば夜這いの話。

大宅 あなたの郷里の大島あたり、いまでも"夜這い"はあるんですか。
宮本 もうないですね。だってこのごろは電灯がついているから、あれは電灯がなくて暗かったからできたんで……。
大宅 山陰地方だったか、"夜這いをやめてオートバイ"って青年運動がはじまったとか(笑)。
宮本 夜這いというのは非常にほがらかないいものですよ。あなたの行った姫島はまだあるといってもいい。あそこの夜這いは娘のところへ行くのでも、そォーッと開けるんじゃない。必ずあいさつして「ごめん」ってはいる。冬なんか拍子木たたいて火の用心して歩くと、寒かろうと寝床であたためてくれるっちゅうんですね。おもしろいのは、あそこにはいまでもクラブが残っていて、タタミ十二畳ぐらいのフトンがある。
大宅 一枚で……?
宮本 一枚。それに若い衆がみんなクサビ打つように頭だけ出して寝るんですね。これはハダカで寝るのがいちばんあったかい。あれくらい、みんなが仲良うしとりゃァ、男も女もないですわね。
大宅 そういうこと、教えておいてくれれば、あの島に行ったときに……(笑)。
宮本 あそこの娘さんたちのほがらかな積極性というものは、青年との間にいざこざはないし、実に大っぴらにお互いがつき合えるからでしょう。

(中略)

大宅 結婚したあと大丈夫ですか。
宮本 ちゃんと亭主を守る。子どものころ、近くの娘が結婚するとき、もう誰とも関係しないシルシに、以前、関係した男に足袋をくばる。それは紺の足袋にきまっている。「こんのたび限り」(笑)。それを二十七足くばった女があったが、そんなのに限って、世帯持ちがいい。
大宅 熟練工なんだな。
宮本 熟練工になって、これがいいってことになると、思い残すことはない。
大宅 そういうのがいい亭主を選ぶ。
宮本 こういう問題がやかましくなったときに、佐賀県で娘たちが「これからどうして自分の亭主になる男をえらんだらいいんでしょう」といったという話があるんですね。一種の試験結婚だから、問題だろうけれど、これっていうのたしかめるのには、それ以外に方法はない。そして、いいのが当たりゃいいでしょう。

宮本常一『日本人を考える 歴史・民俗・文化』河出書房2006年 27p

対談者は大宅壮一で、初出は「"夜這い"こそ最高の結婚教育」(『週刊文春』68.9.30)、今からちょうど40年前の対談だ。
これを読む限りでは、この頃まだ日本に夜這いの名残りがあったということになる。

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宮本 常一

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日本が総中流化したのは高度経済成長期で、それまではフレキシブルながら階層社会はあった。日本の恋愛観・結婚観が固定化されていったのは、ちょうどこの対談があった時期からだったのではないか。

大宅 学生時代、京都では愛宕祭といって、その日は乱交自由の日……。
宮本 もとは日本各地にずいぶんあったですよ。必ず繁みの中に入ってしなきゃならん。だから、高知の大田口では柴折り薬師という薬師さんがある。柴を折ってするから……。(笑)。
大宅 東京でもむかし、井之頭公園あたり、ススキの原で、朝行ってみるとススキが倒れている……。(笑)。
宮本 それにもちゃんとわけがあったんです。とくにイネでもムギでも、みのるころにそばですると、みのりがよくなる、というんです。

大宅壮一は1900年のうまれだから、彼の学生時代というと大正10年前後になる。
その頃ならまだ日本中に色町はあったし、こういう色祭りも全国的にいくつかあったのだろう。
もっとも井の頭は「東京」というより国木田独歩が小説に書いた「武蔵野」だ。江戸の町文化とは少し系統が違う。
その武蔵の国府・府中には闇祭りという色祭りがあって、かつては「乱交自由の日」とされていた。

いまならとても考えられないことだろうが。

「最近の女は羞じらいがない」というヤツがいる。
確かに昔の「上流」の「お嬢さん」には羞じらいがあっただろう。でも世の中、みんな原節子みたいだったわけではない。
日本女性が「清楚だった」というのはかなりすり込まれた感覚で、むしろきわめて個人的な好みの問題だと思う。

いい淫語オナニーものないっすかね。 

やっとYahoo!検索で淫語の1位に戻った。
Googleでは不動の1位だけど、YSTだけはときどきやってくれるんで困っちゃう。
久しぶりにここひと月ほどSEO対策の試行錯誤をしてしまった。
やはりどうもキーワードが近すぎるとダメっぽいな。

ただ不可解なのは2位につけているMBSのやつ。4年前出されたアダルトゲームのサブページ。「淫語募集」とかになっているけど、実際は「淫語募集」となんも関係ない望月望のレコーディング風景。
なんなんだこりゃ。
腐ってるなYST。通報すっかな。

次回は最オナ。
吉野文鳥がベタ褒めしてたヤツね。

今日もショップでいくつか仕入れてきた。
しかしあれだな、いまだに「淫語」タイトルで淫語をほとんど言ってないのにぶつかるな。
スティルワークスは3戦全敗。
こんな量で「淫語」とか入れんな、ボケ!
紛らわしい。
もうぜってぇー買わねぇ!

入り捌け表を作って書いていたなぁ。 

どうにかこうにか明日のアップ分ができた。
データ自体は前に採っていたんでさくさくと出来た。あとは明日、更新作業の時間をうまく捻出しないとな。最近、昼間、忙しいんだよね〜。


自分は昔、素人芝居の戯曲を書いていたことがある。
芝居をやっていた友人の知り合いに書いてみないかと言われた。
といっても、芝居青年の彼もはなから自分に期待していたわけではなかった。たまたま台本に行き詰まっていて、目の前に趣味で小説を書いているらしい人間がいた。初対面に近かった。その人間に書けっていうんだから、そんなに本気ではなかったのかもしれない。

こっちも軽い気持ちだった。
戯曲なんて小説よりも簡単だろうと思っていた。
そもそも会話文だけで進行するんだから文章に凝ることもない。要はプロットができりゃ、あっという間に書き上がるだろう。楽勝だ。そう思っていた。
ところがいざ書いてみるとだいぶ勝手が違う。

まず最初に悩んだのは場の設定。
小説の場合たいてい登場人物にそって描写されていく。登場人物が移動すれば描かれるべき場も移動し、登場人物が回想すれば描かれるべき場も過去を遡ることになる。語られる視点が複数の人物だった場合、パラレルな空間を行ったり来たりすることになる。つまり設定される場、描かれるべき空間は人ごとに存在する。
まず最初に人物ありきなのだ。

ところが舞台は逆だ。まず固定化された空間があって、その中を人が出たり入ったりして進行する。あくまでも場が主体なのだ。場があって初めて人がいる。
当然、小説のように一人称視点も三人称視点もない。あえて視点と呼べるものがあるとすればそれは観客の視点。板の上で繰り広げられる事件を見ている人たちこそがこの話の視点ということになる。観客はただ見ているのではなく間接的に参加しているともいえる。
だから場の設定というのはとても大事なのだ。

さらに舞台というのはそう何度も場面転換ができない。自分が知人に言われたのは90分の3幕モノ。それ以上は増やすなと。
しかも主要登場人物も人数があらかた決まっていた。役者を公募して興行するわけじゃない。好きで芝居しているんだから当然だ。

次に苦労したのは会話文。
演劇というのは全部、台詞で説明しないといけない。
背景や場所の説明、登場人物の社会的身分にそれぞれの情況。
当たり前のことだが説明口調の台詞なんて許されるわけがない。
登場人物のさりげない会話だけで、必要な情報を観客に伝えないといけない。

おそらくこういったことは小説や映像の台本では決して味わえない苦労だろう。
いい戯曲というのは台詞が綿密に計算されている。

そういう苦労の末、どうにかこうにか書き上げた。
最初にしては意外とよくできていたのか、すんなりそれで行こうってことになった。
芝居の稽古が始まり演技がつけられ、本の段階では曖昧だった舞台装置も形となっていった。
自分の書いたものが目の前に現れていく。
不自然でないか笑いをとるところはちゃんととれてるか。そんなことが気になった。
ねらい通りいったり、予期してないところで存外の効果を得られて、そこを褒められたり。
モノを作る楽しみというのは作品そのものが完成した喜びもさることながら、それによって人が楽しんでくれたり感動してくれたりする。そのことが何よりうれしい。
それは創作意欲の源泉だ。
金のためだけではモノは作れないだろう。やはりまず創作意欲がわくかどうかだ。

自分が戯曲を書いてよかったと思うのは観客の目を意識できたこと。
観客とは絶対他者。自分本位な論理は一切通用しない。
小説を書いているときは身内に見せたことはあっても、まるきりの他人に見せたことはなかった。所詮は自己満足の世界。
だから芝居の台本は苦しかったがその分楽しみも大きかった。

今、ときどき思う。
果たしてあの時のようなことが今の自分にできるだろうか?
自分に物語を生み出す力は残っているのか?
そもそも創作意欲が自分にあるのか?

だから自分は物語を紡ぐ人間をリスペクトする。
と同時に雑な仕事には腹を立てる。向上心のない制作者にはクソを投げつけたくなる。
たとえそれがヌキ目的のAVであったとしても、物語を作ると言うことはそれだけ崇高なことだと自分は思っている。