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今年もあともう少しで終わりです。 

2006年って実は松本監督が「一期一会」で淫語ジャンルを確立してから、ちょうど10年目の節目の年なんだよね。
実質、この作品が世に出てヒットしなかったら、「淫語」という言葉はここまで普及しなかった。
淫語プレイそのものは昔からあったけど、「淫語」という言葉を当ててメジャーにしたのは松本和彦であることは間違いないところだろうから、そういう意味では10年目に淫語AVマニュアルができたことは、時の符号なのかもしれない。

ネットで見てみると、「淫語」という言葉はSM小説が初出という記述もあるんだけど、その原典は何か確認できていない。
ただ淫語プレイ自体はSMとは関係ないところで昔からあったと思っている。
確か井原西鶴の『好色一代男』で世之介がやってたように思うんだけど、今度、暇を見つけて当たってみようかと思う。
記憶が定かではないんだけど、古文で女性器を言わせるシーンがあったと思うんだよね。
「そそ」だったよな、確か。

さて、「棒読み」の話。

「棒読み」というと思い出すのは、小津安二郎の映画。
自分は昔の日本映画が好きで、黒澤も成瀬もよく見たんだけど、小津安二郎は原節子の魅力に取り憑かれてて、彼女の出演作はほぼ全部見ている。
たいてい、笠智衆がお父さん役をやっているわけだけど、小津作品のセリフの言い方は、よく言えば「感情を抑えた、淡々とした口調」ということで、まっ、要は「棒読み」なんだよね。

実際、小津の映画を最初に見たとき、なんて下手なんだろうって思った。
見たのは「東京物語」だったんだけど、口調が少し変すぎやしないかとも思った。
でも妙に説得力のある作品で、そのあと「晩秋」だとか「麦秋」だとか「秋刀魚の味」だとか見ちゃってね。
出てくる人みんな棒読み。杉村春子が少しだけ抑揚があるんだけど、間が変なんだよね。
でも、実はその間の開け方こそが、小津映画のリアリティーなんだな。

考えてみると、自分が主観好きなのは小津が好きだという流れと同じなのかもしれない。

世の中には、小津映画の良さを理解できない人もいるみたいだけど、あの映画を理解できない人って、漱石とか芥川とか読んで、つまんないと思うような人たちなんだろうなと思ったりする。
ストーリーが予定調和だとかね。
自分が日本の小説で一番好きなのは、漱石の「明暗」なんだけど、あの小説なんて未完だからね。起承転結も話の起伏もあったもんじゃない。

自分はエンターテイメント小説のような人工的な話も、ハリウッド映画のようなストーリーだけを楽しむような映画も好きだけど、純文学も、小津やトリュフォーのような映画も好きなんだな。

AVにも心理的なエロスを求めているところがあって、まぁ、そんなに高尚なもんじゃないんだけど、見ていてジワジワくるようなエロがほしいのよ。
「淫語」って言葉だから視覚よりも抽象的で、かなり心理的なもんだと思うのね。
そんなものにハァハァする自分ってなんだろうって思ったりもするんだけど。

小津映画なんかを例にとれば、どんなに抑揚を感情込めて言っていたとしても、間が悪い人はダメだし、逆に間がよければ抑揚がなくても、言葉がリアルに聞こえることもあるんじゃないかと思う。
「淫語」の言い方も同じだろうと。

特に映画や演劇の場合、「間」というのは、行動とも連動している。

動作とセリフによる間の相互関係にこそ、淫語AVにおける、淫語のリアルさがあるんじゃないかとにらんでいる。
だからどこからカットインするかは淫語AVの場合、とっても大事なはずなんだけど、全く理解していない監督さんがいたりして、そういうのに出会うとその監督さんを呼んで、その人のこめかみをグーパンチでぐりぐりしたくなることがある。

寧々さんはうまかったね。動作と言葉が連動してた。 編集もよかった。
でも、寧々がサポート アナタのオナニータイムも、ハードさがない、淡々とした作品だった。
だから、あの作品の良さを今ひとつわからない人もいるんだろうな。

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