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「おまんこがいっぱい」から淫語を考えてみる。 

ちょっと長くなるけど早速、引用。
上野千鶴子のエッセイ集『女遊び』に収められ、当時、世間の耳目を集めた書き下ろしエッセイ「おまんこがいっぱい」は以下のように始まる。

女遊び
わたしは良家の子女(!)だったから、思春期にひそひそ話や意味ありげなくすくす笑いとともに性情報が伝わる悪ガキ集団から、隔離されて育った。大きくなってから、おまんこというコトバを覚えたが、それはカントという英語や、ヴァギナというラテン語や、またはボボという九州方言と同じくらい、わたしには「外国語」だったから、カントと聞いてもちっとも顔が赤らまないのと同じ程度に、おまんこと言っても解剖学用語のようにしか響かないのだった。ちょうど性に目覚める頃、自分のうつぼつたる生理感覚や、周囲の反応で直観的にそれがタブーだとわかってしまうような禁止の感覚と、おまんこという四文字コトバがふつうなら結びつくところが、その連想がうまく形成されなかったのだろうと思う。

おまんこ、というコトバを覚えてからのわたしが、おまんこ、と口にしてみると、周囲の狼狽ぶりや眉のひそめようがおもしろくて、それからというもの、おまんこというコトバは、他人がイヤがる反応を引き出すための、マジック・ワードになった。知り合いの六歳のコドモが、チンチン、と言うと母親がイヤな顔をするもので、ただ母親の反応を引き出したいためにだけ面白がってくり返しチンチン! と叫ぶのに、それは似ていた。母親がなぜイヤな顔をしたり、やめなさい、と怒ったりするのかよくわからないけれども、この魔法のコトバは、そのつど確実に母親の反応を機械的にひきおこすものだから、コドモはその呪文の威力をくり返したしかめては喜んだ。そして、その呪文の威力をつうじて、母親に力を行使できる自分をたのしんでいるふしがあった。

コドモは母親以外にも呪文の威力がためしたくて、出会う大人にのべつくまなしにチンチン! とやっては、母親のヒンシュクを買った。わたしはこのコドモのオバである。 このコドモが一二歳になった頃、チンポのケが生えてきた、と言う。この年齢までに、コドモはさすがに、チンポのケ、と叫んで大はしゃぎするほどのコドモらしさを失なっていた。わたしがチンポのケ! と叫ぶとコドモはオバに呼応してくれなくなって、それどころか恥ずかしがって顔をそむけた。オバはますますチンポのケ、と言いつのり、チンポのケを一本くれたらお年玉をはずむのになあ、とコドモをからかうが、コドモはもう一緒にはしゃいでくれない。コドモは性の情報をどこからか身につけてオトナの世界に行ってしまったのだろうか、とオバは遊び相手を失ったさびしさで、もう一度だけ、チンポのケ、とつぶやいてみる。

おまんこ、というコトバを口にしたり、おまんこについて語ったりする時のわたしは、チンチン! と叫ぶときの六歳のコドモのようなところがある。すまし顔のオトナがとつぜんやーねと顔をしかめるのがうれしくて、ただそれだけの反応をひき出すおもしろさに夢中になっているところがある。こんな楽しみはたあいのないもので、相手が反応しなくなったら、おしまいである。動かなくなったおもちゃを捨てるように、わたしはおまんこというコトバをあっさり捨てるだろう。逆に言えば、周囲が眉をひそめつづける間は、おまんこと言いつづけるだろう…。

上野千鶴子「おまんこがいっぱい」『女遊び』所収 学陽書房1988

まず、彼女が「おまんこ」というコトバになんら卑猥なイメージが伴っていないということからはじまり、次に卑猥なイメージが形成されていないコドモを引き合いに出して、オトナに「チンチン」というコトバを投げつけ、母親ですらなんらかの威力を行使できることをコドモは楽しんでいるのではないかと推察する。
ところがコドモもいつのまにか成長してしまい、そのコトバのもつ卑猥なイメージを恥ずかしがるようになる。上野は同志を失いつつ、いまだにオトナたちの反応がおもしろくて人前で「おまんこ」と言う。

まとめれば、こんなところか。

もちろん彼女はフェミニストなので、淫語のいやらしさについて語ろうとしているわけではない。

ついでだからエッセイ全体を軽くまとめてみると、この書き出しを受けて「おまんこは誰のものか」という問いを設け

「おまんこを花と形容したのも男なら、ボロぎれと呼んだのも男だ。女にはどちらもわからない。というより女にはどちらも関係ない。おまんこは花でもボロでもない。おまんこはおまんこだ。しかし男たちがおまんこを、すみれ、ウニ、ひとで、二枚貝、傷口……と呼ぶのは、女たちを脅えさせ、混乱させる。おまんこを定義する力は、男たちが持っているからだ。

という話を展開する。

さらに、男は女の性器にファンタジーを見るが、女は男の体にファンタジーを求めているとは一概に言えないとする。その例としてフェミニズム・アートがなぜか男の体より、女の体、特に女性器にこだわっていることに着目する。

女遊び 表紙絵
この本の表紙や本の挿絵にもなっているのだが、これを創っているジュディ・シカゴをはじめ、女のアーティストたちがおまんこアートにこだわり、造り続ける理由は、女のエロスの根底にナルシシズムがあるからではないかと考える。
そのオートエロティシズム(自己性愛)はまた同時に、女は必ずしも男の体を必要としているわけではないということを示唆する。

そして、おまんこを神秘化したり、汚らわしいものだと思ったりするのは男どもに任せて、女はおまんこをありのまま受け入れ、「おまんこを通して自分自身と世界を見ていこう」ということで話を結ぶ。

まぁ、この辺りは男である自分からすると微妙な疎外感を感じつつ「へぇー」とでも言っておくしかないわけだが、ここでは構造主義者でもある彼女の次の一節に注目しておきたい。

おまんこ、と唱えて相手の驚く顔が見たい、というわたしのこどもじみた欲求は、フーコーの言う<性の抑圧>仮説にぴったりだと、今さらのように感心する。フーコーは、禁止があるからこそ性の言説がはびこる。性の抑圧と性的ディスコースの特権視は、タテの両面だと喝破した。おまんこ! と叫んで他人のヒンシュクを買いたいわたしの不幸なビョーキも、この近代の射程の中にあることが、今じゃはっきりわかるよ、フーコーおじさん。

ここから言えそうなことは、それが「近代」社会において「抑圧された」禁忌の言葉だから、ということだろう。
さらに言えば、それは近代に入って起こる「性倒錯」の一種ということも、気にとめておいた方がいいかもしれない。
レズビアンやフェティシズム、SMに淫語が親和性をもつのは、その辺りに理由があるとも考えられる。

ただ、注意しないといけないのは、上野の淫語の面白がり方は、あくまで相手が戸惑う反応にとどまるということだ。淫語そのものを言わせて、それで興奮するわけではない。
実際、彼女自身「おまんこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、私はおまんこと言いつづけるだろう」と言っている。
したがって彼女は、淫語を言うことが好きかもしれないが、淫語マニアが女の人の口から淫語を聞いて性的興奮を得るメカニズムとは違うと考えるべきだろう。
あえて言えば痴演系淫語に分類されなくもないのだが、これを淫語プレイの1つとして考えてしまうと少し混乱してしまいそうだ。
レズビアンの淫語責めに近い感覚ではあるんだろうけどね。

女遊び
女遊び上野 千鶴子 (1988/06)
学陽書房

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ところで、この話はここで終わらない。

というのも、自分がこの「おまんこがいっぱい」についておもしろいと思うのは、淫語関連で言うなら、この「おまんこ文」そのものに対する世間の反応なのだ。
特に『文壇アイドル論』で上野を俎上に上げた、文芸評論家・斎藤美奈子の評価はとてもおもしろい。
だから次回は、斎藤美奈子の「おまんこがいっぱい」の反応について確認してみたい。
淫語に対する彼女の姿勢が、淫語に批判的なAVユーザーのそれと同根のような気がしてならないのだ。

同じエロビデオを見ているはずなのに、淫語に興奮する者もいれば、はげしく萎えるという者もいる。
一体、これはどうしてなんだろうね? フーコーおじさん。

この続きは 文壇アイドル論における「おまんこ」
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