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男根主義と女体主義 

今日、UPした「地獄痴女」なんだけど、総評にも書いたとおり、男根主義の映像ばかりでメリハリがなく自分はとても退屈だったんだよね。
昔、WaapでやってたときのFLAG作品を見ているような、なんかヘンな気分だった。

自分は主観映像には女体賛美の画を求めていて、FLAG監督の作品を見始めたのは、まさにそういう撮り方をしていたからで、こんな感じの男根主義映像は、混乱するから絶滅して欲しいぐらい。中途半端になるのがオチだと思うんだ。

主観に向いているのは視姦するように女性のパーツを映し出しつつ、意識が主観側と被写体を行ったり来たりする撮り方だと思うんだ。それが心理的エロ空間の中で渦巻いていって、興奮を誘う。あくまで男が見るってところから出発して欲しい。
だからフェラ1つとっても、竿が「主」で、口が「副え」ではなく、女性の口や舌が「主」で、竿は「副え」だと思うんだ。完全主観において竿はあくまでも女性のイヤらしさを引き出すものでしかない。あえて言うなら「男の視線」が「主」なんだね。

もちろんそれはファックにおいても同じ。だから別にデカチンである必要もないし、激しいピストンもいらない。そういうのが見たければ客観の方が絶対にいいはず。主観のような制約のある画で見るものではない。

それと男根主義オンリーの痴女作品にするのなら、内容的にはもっと過激に痛めつけないと面白くないんじゃないかなぁ。これでは全然、物足りない。
金蹴りや皮ひっぱりぐらいは必須。洗濯ばさみで挟むとか紐で縛り上げるとか、ほかにもいろいろやらないとダメだと思う。

女の人の痴女というのは根っこにナルシズムが入っている。竿への興味はその反射でしかない。あのFREEDOM作品ですらそうだからねぇ。だからこそ自分は、男根主義であるはずのFREEDOM作品でも面白がって見ることが出来るんだけど、今回の「地獄痴女」はそういうナルシズムが入っていない。
しかも、それをFLAGMAN流の完全主観でやられてもねぇ。二村ヒトシ風の撮り方なら合うとは思うけど。
これを満足できる人って結構、映像的な部分でのエロを重視している人じゃないかなぁ。
でもだからこそ、わざわざ不自由な主観で撮る意味はないんじゃないでしょうかねぇ。

そもそも主観を見たいヤツって、男の体が見たくないんだよねぇ。男優の竿ですら見たくないっていう極端なヤローだっている。
3Pを嫌うのもそういう理由なわけで、どうもコンセプトがスッキリしない。

男根主義基軸の主観映像は、昔、SODの「オナてつ」でやってたこともあるんだけど、どれも自分にはつまんなかった。実際、そうなってからのオナてつの人気は芳しくないんじゃないのかな。
もともと森川監督はレズ作品を撮るぐらいの人だから男根主義者じゃないと思うんだよね。
それはFLAG監督でもおなじでさ。尻フェチなわけでしょう。まっ、大人の事情で、おっきなオッパイばかり撮っていたこともあったけど、フェチ趣向であることには変わりない。
あえて言うならK*WEST監督の方が作風はあっている気がする。エロい画なら彼の方がうまい。FLAG監督にはこういうので勝負して欲しくないんだよね。

でもそれよりもさ。問題はレアルよ。

痴女作品が売れなくなったというこの時分に、わざわざ新たなレーベルを起ち上げてまで推す「痴女」スタイルなのかねぇ。
そもそもMレーベルの人たちはどういう風に「痴女」を定義しているんだろう。くわしく聞きたいところではある。

ま、結果的に面白ければいいんだけどね。
実際、売れてんの、これ。

話変わるけど、今日は朝からデビルマンのエンディングテーマが口をついてしまう。
そんでさっき、ようつべで検索したら、やっぱりあった。
だから貼ってみることにする。


ビルの梁で物思いにふけるデビルマン、ナンカイイ!!
ちょっと、藩金蓮さんと話していたことを思い出した。
菩薩様? 八部衆?

んーと。
そういうことで、FLAG監督、ガンバってくださいね。

コメント

今、気づいた。

デビルマンの人間名は「不動明」。
つまり「不動明王」のことか。
なんて奥が深いマンガなんだ。

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>またメールください!! でわ。

とか言われましても、そもそもメアドをしらないんでメールのしようがないんですが…。

感想はいつか書きます。
2ちゃんねるでも女優板では評判がいいみたいですよ。
ただ私としては不満がないわけでもないんですよ。細かいところなので、改めて見直してみようと思います。
ちょっと比較してみたいですしね。

またコメントください!!
でわ。

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不動明王

最近、永井豪の漫画の「深さ」をよく知人と話します。
そういわれてみれば、「不動明王」ですね。
怒るから戦うのか。
だから、「暴力」とか「戦い」も、そこには何らかの「慈悲」が存在する場合もあるな、と。

「不動明王」にしても、「愛染明王」にしても、仏教は単純に性や暴力を否定してないことは確かですね。そもそもそれは人間の営みの一種ですからね。それを無下に否定しては人間の形そのものを否定しかねない。
もっとも、これを簡単に自分たちの欲望に沿わせてしまうと、オウムのような解釈が生まれてしまうので書き方に注意しないといけませんけど、仏教の場合、善悪が多層構造になっていますでしょう。

仏教の考え方は、1つの見方に縛られるのではなく、物事を重層的な実体として見られるようにしておくこと。その見方ができれば、単純な絶望からも救われるし、あえていうなら単純すぎる希望からも抜け出せる。
すべて「縁起」から出発しているのですから。

実際、網野善彦などに言わせれば、かつての日本でも今の日本人とは違った感覚で性や暴力をとらえていたようです。
現代の日本人は少し物事の善悪について単純すぎますね。
ある意味、善悪と快不快が直結してしまっている。
日本人の信仰観も「呪術的な祈り」にとどまっていて、そこから宇宙との整合性を図る「宗教的な祈り」、仏教で言えば「煩悩とどう向き合うか」というようなところに昇華していかない。それこそが仏教に限らず「宗教」という文化装置の役割だと思うんですけどね。

便利な世の中は結構ですけど、インスタントな人間観、世界観はマジ勘弁です。

7/6の藩金蓮さんの日記を読んでいて、ガラスの靴が1個しかないと思い込んでいるから、それだけに執着しまくるのであって、もし押し入れにガラスの靴のスペアがゴロンゴロンしていれば、その方ももっと気楽に生きられるんじゃないかと思いました。
大事なのはガラスの靴を踏みつぶしても怪我しない、頑丈な足に鍛えあげることなんじゃないでしょうか。

いや、そもそもガラスの靴そのものに執着する必要がない。
私はガラスの靴よりナイキのスニーカーがいいかな。ときどき丸井で買い換えたりして。
でも黒の革靴とかも履かないとパーティーには出られない。葬式にも行けない。

それを仏教は教えている気がしますね。

私は大学が浄土真宗系だったんですね。
それもあって、親鸞の教えに接する機会が多かったので、自分の中の「仏教」観は、親鸞の思想が一番しっくりきます。
好きな僧が親鸞と一休宗純ですから、性的なことだけではなく人間の業の肯定と、その業をはらみながらの救いを求める在り方が、自分の中にある「仏教観」ですね。


あのブログのセックスレス夫婦は特に珍しいわけではなく、何かを象徴してるというか、、
すでに形骸化してそれ自体には価値を持たない、「どうでもいい」ことに囚われて苦しんでいる人間だらけだと思います。自分自身も含めて。

実は私が藩金蓮さんの文章を読み出したのは、AVとはあまり関係なかったりします。
平清盛の座像の話や鞍馬寺の奥の院の魔王尊の話とかそういう話に魅せられたのが最初なんです。歴史の話も、史実云々というより藩金蓮さんご自身の重ね合わせ方にまず惹かれました。

歴史を好きな人って、大抵、戦国時代か幕末になってしまいます。私も嫌いではありませんけど、中世の頃の話が一番、興味深いと思っているんですね。自分のアイデンティティーを揺さぶられるって感じになります。宗教者もその辺りに魅力的な人が集中していますよね。これは多分に宮本常一や網野善彦の影響があるんですけど、私は自分の根幹を揺るがすような話が大好きなんです。

司馬遼太郎は日本人の成立は鎌倉時代で、それ以前はまるきりわからないって言ってたことがありましたけど、鎌倉時代前後、平安末期から室町中期ぐらいまで。そのあたりが日本の転換点なんだろうと思います。もちろん、北海道・沖縄を除いての話ですが。
たとえば悪人正機説も親鸞が言い始めたと言うより、そういう時代の要請があったんでしょう。似たようなことは日蓮も道元も言っていますし、一遍や叡尊なんかは非人・遊女への布教を積極的にしてました。
あの頃、女犯僧もいっぱいいたようですし、それどころか人肉を食べちゃう坊さんなんかもいたみたいですね。女性の貞操観念1つとってみても今とは全然、違う。私が住んでいるところの、平安時代からやっている祭りなんて…。
…と。
この手の話をしだすと私は止まんなくなっちゃうんで、やめておきます。

それより藩金蓮さん。
いつのまにか東京に来てたんですね。
東良さんの日記を見てびっくりしましたよ。

と思ったら藩金蓮さんも書いてたのね。

おほほ

そうなんです。丸一日も居なかったんですが、久々上京しておりました。
市原克也監督も書いておられます。http://ameblo.jp/katsuyaichihara/entry-10039345780.html

私は山田風太郎の影響で室町時代に興味を持ったんですね。(実は山田風太郎は同郷で高校の先輩にあたります)
確かに幕末と戦国は分かりやすい形で面白いのですが、私も日本の転換期はその時期だと思います。
政権の形が平安末期に、それまであった価値観みたいなものを否定して、その上に新たなる物を築く形で成立してのがその時期だと思うのです。
いつか書きたいなと思っているのですが、武士道というのはマゾ道じゃないか、と。そしてマゾの男が政権をとり始めた頃から日本が変わったのじゃないかと。そしてそのことによって女性も変化したのじゃないかと思います。

鞍馬寺の霊宝殿に行った時に、義経関連でその平安末期の事がいろんな視点からことこまかく展示してあった、相当面白かったです。徳川家康が義経・頼朝の相当なマニアだったこともそこで知りました。「吾妻鏡」というのは源氏研究の為に徳川家が保存していたから残っていたものだということも初めて知りました。

私もこの手の話をすると止まりません、、、
六波羅蜜寺の邪眼清盛像と空也像は、何となくお正月に見にいく習慣が出来つつあります。

確かに

「切腹」や「仇討ち」なんて究極のマゾ道かもしれませんね。
西国の武士と東国の武士はまた違う感じもしますし、南北朝時代はそれが入り乱れちゃって、その辺りのグチョグチョ感がいいんだよなぁ。足利兄弟の喧嘩なんて、面白い要素が満載です。
京都の権謀術は頼朝・義経兄弟の時はうまくいきましたけど、尊氏・直義兄弟の時はあまり成功したとは言えない気がしますしね。

今、思ったんですけど、関東のSMって、SかMかの役割がハッキリしている気がするんですけど、団鬼六ってバイな感じがしますねぇ。武士道って主従関係もそうですけど、役割が固定的なのかもしれませんよ。頼朝は義経に主従を押しつけますけど、義経はどこかで、「でも兄弟じゃない」っていう甘えのようなものがあった。
頼朝は絶対、ぶっちゃけませんからね。義経にすればさぞかし、融通の利かないあんちゃんに見えたんじゃないでしょうか。情で動く弟に、組織人の兄。新撰組もそうですけど、それが東国のリアリズムなのかもしれませんね。

遅まきながら

 団鬼六はバイですね。エッセイなどを読んでいただ非常にマゾっぽいと思います。
 そう言えば、薩摩や長州なども情で動いている感じがします。だからこその限界があったような気もします。幕末だけではなく、その後の明治維新においても。
 その点、龍馬は郷士という身分故に背負うものが無くて非常に視野が広く自由だった。(だからこその苦しみや孤独も勿論あったと思いますが)
 新撰組は東国の人達ですもんね。
 なんとなく、私はあんまり新撰組には惹かれないのです。いまいちそこにある「美学」に共鳴しない。


 長州に行きたい、、、、

なんかまだいろいろ

続くかもしれないので、返事を改めて記事として起こしますね。
藩金蓮さんに、こんなに相手してもらえるとは思わなかったので、なんだかとっても楽しくなってきちゃいました。
それに地域差を探るのはこのblogの趣旨にもかなうでしょう。
では、またのちほど。

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司馬さんの『東と西』っていう対談集も面白いです。

結構、このblogでは特定の1人に向けて書くことが多いんだけど、この記事は男根主義と女体主義 のコメントの流れで、藩金蓮さんに向けての返事をここで書くことにします。というより完璧にこの時の記事の内容からズレてしま

  • [2007/07/14 23:49]
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  • ボヤキの小窓 ~淫語AVマニュアルの日々~ |
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