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メイド喫茶はまだ行ったことがない。 

昨日の夜は遅くまで地元の友人のグチにつき合わされてなかなか帰してもらえんかった。
まさかAVを見るために帰らしてくれとも言えず、もぞもぞしながら聞いていた。

当人は真剣に相談しているつもりなんだろうけど、独り身の自分からすると「子どものことで悩める」「ツレの不満を言える」って段階で十分、幸せなんじゃないかとも思えるわけで、「そんなにイヤなら別れりゃいいじゃないか」って言うと「また、そんなことをいう」ってなる。

そりゃ、その気になればいろんなことを言ってやることはできる。そっから話を膨らませ、なんならキミが望むようなことを言ってやることも可能だ。実際、そういうのが聞きたくて自分にグチるのかもしれんが、こういうのに悩みたがるヤツって、大体にして自分にウソをついている。自分をごまかしているから悩むわけ。
そうじゃなければとっくに動いているはずだし、「相談」するところも医者とか弁護士とか学校の先生とか、そういう実務者にこそするべきなんだよ。

でもそうじゃないんだよな。
自分のことをわかってくれそうな人間に自分語りをしているだけなんだ。
だから「そもそもなんでそいつと結婚したんだ」って、大元の部分を確認してやろうっていうのに、そういうこっちの気遣いも理解できていない。

いったいどこまで自分が好きなんだっつーの。

まぁ、結局つき合っちゃうんだけどね。

「そんなことよりオレは忙しいんだよ。AVを3本見なきゃいけないの。そのうち2本はおまんこやチンポを数えながらセリフを抜き出す作業があるわけ。だから帰らしてくれぇ!」

とは決して言えないからねぇ。

ということで、今日の夜は頑張んなくては。
でもこれからちょっとお仕事をして、そのあと昼からは秋葉原にいかなきゃいけない。
ノートPCのHDDとDVDストレージを物色しなくては。HDDはいいけどDVDはジャンクかもな。

さてそろそろ出かける準備をしなくちゃ。

コメント

今日は大阪行ってました(仕事)

 女の「男絡みの相談」は、よくよく話聞くと自慢話だったりすることが多いです。
 
 結局、いつも悩んでる人は、悩むのが好きなんだなぁと思ったり、いつも苦しんでる人は苦しんでる自分が好きなんだなぁと思ったりします。
 同じ状況に遭遇しても、悩んだり苦しんだりしない人もいるんだもん。まず行動って人は、あんまり悩んだり苦しんだりしないかな。

 恋の悩みとか聞いてもなぁ・・・結局当人同士のコミュニケートの問題だと思うから、他人に話してもしようがないと思うんです。

昨日は疲れました。

秋葉原を8時間近く歩き続けました。
物を持って歩いていたせいか、朝から右股関節が痛いです。

私は駆け引きとかされるとイヤになってしまうのですよ。
ときどきそういう方がいますよね。しかもご当人自体は、駆け引きしていると思っていない。

要は相手の反応を使って自慰行為をしているにすぎない。もちろん誰でもそういう部分はあります。私なんかも自分のやったことが誰かのためになっていると聞けば嬉しくなります。

でも他人はあくまで他人です。自分の望んだとおりの反応をしてくれないからといって、破壊の衝動に身を委ねようとしたり、それをちらつかせて関心を惹こうとしたりする。
そういう人って恋の話はするけどホントは誰も愛してないんじゃないかなぁと思います。
まるで大きな赤ん坊です。

もっとも私は偽善者なんで面倒くさくなって最終的には話を合わせてしまいます。
そこら辺が私のヘタレなところです。

秋葉原って行ったことないです

 私は、めんどくさくなって、すぅ~っと距離を置いてそのままフェイドアウト狙いますね。
 だって他人を使って自慰行為をする人と一緒にいると疲れるし時間の無駄なんですもん。
 そんな人の将来がどうなろうとしったこっちゃないし。
 基本的に人になつかれるのは嫌いなんですけど、なつかれやすいです。要するに舐められやすいんだろうけど。



 とか言いつつ、昔は思い切りそういうことしてた覚えがあります。
 今は、、どうかな。
 文章を書くことが、そうならないようには気をつけたいと思ってます。
 mixiもそうなんですけど、顔の見えないネットで文章を書くというのはそういうことも伴うから。だから、ブログのコメント欄を消したのもあるんですけどね。
 

私も普段は行きません。

フェードアウトっていうのがなかなか苦手なんですよね。
そうできたらいいんですけどとりあえず限界まで行っちゃうんだな。

私は思春期の頃、話のあう友だちがいませんでした。だから友だちの輪の中にいてもどこか孤独でしてね。
中村雅俊の青春ドラマとかにあこがれました。
本では井上靖の「しろばんば」シリーズや北杜夫の「どくとるマンボウ青春記」。旧制高校のバンカラなインテリ学生が好きでした。

でも現実は、ガチンコでしゃべれる友だちなんてそうそうできるわけじゃない。だからそのうち人にあわせて話すようになっていきました。
たぶん、こういうのってみんなそうなんだと思いますけどね。

「結局、人間は独りなんだ」って自覚できてから、ぽつぽつと気の置けない友人ができてきましたが、それって相手の人格を認めたってことでしょうからね。他人を他人として受け入れられるようになった。

依存する人間はそういうところがわかってないのかなぁって思います。だから本当に他人を好きになることができない。
だって人は死にますからね。どんなに愛しても死ななきゃいけない。

甘えて赦されるのは若いうちだけ。
「花の色はうつりけりないたづらに」です。

藩金蓮さんのブログは「この人ならわかってくれるかもしれない」オーラがでてるかもしれませんね。アンチもいて不思議ではないです。
それが文才があるってことなんでしょう。
そろそろブログの再開も近いんでしょうか。
心待ちしているのは私だけじゃないと思いますよ。

我がみよにふるながめせしまに

 私は、ものすごく冷酷に人を切ることができます。相手が悲しもうが苦しもうが、平気で人を切ることができます。憎まれようが嫌われようが知ったこっちゃない。自分は情が深い人間だと思うけれども、そういう残酷さも持ち合わせて、何にせよ過剰な人間だと思います。

 私も思春期の時は話が合う人間がいませんでしたねー。
 初めて、「話が出来る」と思えた人間が、最初の男でした。それで永いこと依存してしまったのだけれども。でも、金が絡んでからは、ほとんど会話らしい会話が出来なくなり、最後の方には私は怖くて言葉が発せなくなっていました。わかりあえなさ過ぎて、会話するのを諦めていたのです。溝が深すぎて言葉が出なくなってしまいました。

 人は必ず死んでしまいますね。自分も、自分の大切な人も。
 だから後悔したくないです。
 後悔しないように、先を怖がらずに進んでいきたいです。
 自分が死ぬのが怖いんじゃなくて、後悔するのが怖いです。
 中島らもの本について書いたように、人と関わり「愛」を生み出すのが怖い。
 でも、後悔するのは、もっと怖いですね。
 
 あと、「幸せ」とは、自分に嘘をつかないことなんじゃないかな、と最近思います。

 今週末、多分二ヶ月ぶりにお休みもらえるかも。
 いろいろバタバタしてはいるのですが、ぼちぼちブログも再開しようかなぁとも思います。

皆是れ虚妄なること

私も冷酷に人との関係を絶つことができますね。
というより、大抵、向こうが焦れて勝手に自爆していくんですけどね。

昨日も関係を切ってしまった人の勤める会社に用事がありましてね。いるんだろうなと思ったら、やっぱりいました。
気まずそうな顔をしてましたね。私から挨拶をしてもちゃんと返さずいつのまにか消えてました。
こういうのは男の方が臆病かもしれません。

逆にきちんと謝りもせずに、なし崩し的に関係を修復しようとする人間もいますね。私はちゃんとした謝罪をしない人間には、一切、会うつもりはありません。
でもこういう手合いは、なぜかきちんと謝罪ができないんですよ。他人が何に対して怒ったのか理解する気がないんじゃないかと思ってしまいます。
謝罪もできないくせに不平不満はいっちょ前。

藩金蓮さんはその男の人に呪縛をかけられたんですよね。
かかってしまったといっていいのか。
でもその呪縛を解きはじめたから今の藩さんの文章があるのかもなぁと思うことがあります。変わる人は本当に変わる。

自分に嘘をつかないというのはその通りだとしても、そのご自分のどこの部分に嘘をつかないかというのがもっと大事ですよね。
人間はどうしたって嘘をついてしまう。だからその嘘をどう見極め、使いこなしていくか。
そうやって心の実相を表現するのが作家ってもんでしょう。

どちらにしろ私は、mixiで書き始めた頃の藩金蓮さんの文章より、ここ最近の文章の方が好きです。
今の藩さんはただ闇雲に吐き出しているわけではないでしょう。
美しさに毒は必要だけど、毒ばかり吐かれてもそれはそれで嘘になると思います。
泥沼に咲くハスの花のように、人間の心の深奥には穢れのない部分があると信じたいですものね。

だから西行は旅に出たんだと思う。

草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

 西行が高野山で孤独に耐えかねて反魂の秘術を使ったって話が好きです。
 孤独に耐えかねて、既に存在する人間に近づこうとするのではなく、自分で「人」を作ろうとするけれども失敗して捨てるという行為が、絶妙にエゴイスティックだけれども、西行という人の絶望的なまでの孤独と、一見その孤独と相反するかのように思える切実なまでに他者を必要としてしまう悲しさを思うと、なんだかホっとするのです。
 
 1人で生まれて1人で死なないといけない孤独な存在である人間が、1人では生きていけないということは悲しいことかもしれないけれども、だからこそ意味があるのかなと思います。
 世界に、自分以外の人間を発見することが、生きていくことの喜びなのかもしれません。

 

まどひ来て悟り得べくもなかりつる 心を知るは心なりけり

私はこの歌が大好きでしてね。

彼は自然を織り込みながら人の心を詠んでいる。
旅の目的もまた他人の足跡を訪ねるものだったりします。

「悟る」も人の心、「惑う」も人の心、どちらも人の心であることにはちがいない。
「人の心」を知るのも、また「人の心」しかない。
だから人は他人の心を求めてしまうんでしょう。

人肌恋しいのは実は人の心が恋しいからです。

私はそう思います。

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