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風に訊いてみた 

んとねぇ。なんかねぇ。先週の週末ぐらいからやたらのどが痛くなってね。のどにさらしとか巻いてしばらく過ごしておった。
どうやら花粉症で炎症を起こしているところにもってきて、バイ菌がはいったらしくて、結局、あんまりひどいので病院に行って抗生物質を飲んでようやく収まった。
なんか今年は年頭からずっと病院に行っているような気がする。運動不足がたたって免疫力が堕ちているんだろうなぁ。少し、歩くように心がけよう。

ちょっと滞りがちだったけど、明日は五十川さんの熟雌女をUPする。
そのあとはリコピン&乃亜さんのダブルドリームあたりかアロマの何かにしようと思っちょります。

来週の金曜日はサイトの2周年目を迎えるんね。それまでサイトの模様替えをしたいと思っとるんだけど、今年は例年以上に忙しくて、なかなかまとまった時間がとれない。
まぁ、ぼちぼちやりますか。


さっき読んでいた開高健の『風に訊け』にこんな文章があった。

 芥川龍之介が作品、『侏儒の言葉』の中で「文を作らんとするものは如何なる都会人であるにしても、その魂の奥底には野蛮人を一人持っていなければならぬ」と書いていますが、先生の魂の奥底にはどんな野蛮人が住んでいるのでしょうか。
(宮城県苅田郡 野蛮人)

 魂に奥底があるのかないのか、それが問題だ。魂に奥底があるのならば、ひょっとしたら私ものぞくことができるかもしれないが、そして野蛮人がいるかいないかも君に語ってあげることができるかもしれないが、魂には奥底がないはずのものと私には思えるので、野蛮人が住んでいるのか、文明人が住んでいるのか、それすらもわからない。芥川龍之介が「魂の奥底には野蛮人を一人持っていなければならぬ」といったのは、自分の中に野蛮人がいず、それを頼りにすることができなかったので願望としてそれを語ったのであろうと思われる。
 しかし、芥川龍之介と同じように繊細で、苦しみ抜いて此の世を去っていったアメリカの作家の一人にエドガー・アラン・ポーという人物がいる。この人物は似たことについてこういうことを書いている。「真の告白をしてみようと思ってペンをとってみたまえ。そのペンの下でたちまち紙は火を吹いて燃え尽きてしまうだろう」――こういうことなんだ。魂の仕業にはとめどないものがある。頂上も奥底もあるのかないのか。あり、かつないようにも思われるし、永遠の謎である。だからこそ文学が、芸術が求められるのだが、何十冊、何千冊、何百万冊小説が書かれても、なおかつ人は小説は書き続けていくだろうし、音楽をつくり続けていくだろう。そして読み続ける人があり、聴きつづける人があるだろう。それは魂に奥底がないからである。いや、あるからである。いや、ないからである。いや、あるからか。
(開高健「魂の野蛮人」『風に訊け』集英社文庫1986.6.25)

つい最近、これと全く似たようなことを、ある人のメールに書いたばかりだったので驚いた。上野千鶴子の本を読み返したときも思ったけど、若い頃に読んでいた本って意外と血肉になっているもんなんだね。

風に訊け (集英社文庫)風に訊け (集英社文庫)
(1986/06)
開高 健

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エドガー・アラン・ポーっていうのは日本では『黒猫』とか『モルグ街の殺人』とかで有名な作家だけど、アメリカじゃホイットマンと肩を並べる大詩人。アメリカ人は小学校で必ずポーの代表作である『大鴉』という詩を勉強するらしい。
なので、普段、詩などを読まないような人間も、ポーの詩だけは覚えていたりする。
若いうちに、できるだけたくさん本は読んでおいた方がいいということか。

そういえばあの『欲望という名の電車』に乗ってきたブランチも、ポーの表現力を絶賛する場面があったよね。あれは英語教師だったからだろう。

紙をも焼き尽くすような「真の告白」。
そういう文章に出会うとそれに共鳴してこちらの魂が揺さぶられる。
心が打ち震える。そして祝福が訪れる。
そんな芸当ができる作家こそホンモノといえるのだ。
見てくれの文体じゃない。

友よ。そういうことだ。
その答えは風に吹かれている。

久しぶりに『夏の闇』でも読んでみるかな。

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