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ショット分析がどうだとかこうだとか 

AVは初見の印象が全てで、そこが悪ければもう二度と見られることはない。

だけどAVレビューを書くようになって、何回も見ていくうちに最初の頃は気になっていたものがだんだん気にならなくなってくることがある。
このあいだの溺愛ママシリーズで言えば、一つのストーリー設定なのに男優が全部違う。「ママ」に接するときのキャラも声の出し方もまるきり違う。
撮影上の事情で致し方ないことなのかもしれないが、通して見ている方からすれば明らかにおかしいわけで、そんな事情、購入しているユーザーからすればなんのいいわけにもならない。

それがあらかじめ制作者のねらいでそうなっているのならまだ納得もする。最初から了解事項としてそこは眼をつぶって見ればいい。
でもそうやってガマンして見ているうちにだんだん感覚が麻痺してしまうのだ。
実は溺愛ママの更新データを作っているときにそういう違和感が自分の中で摩耗しはじめていることに気づいたのだ。

そしてそれは他のAVシリーズでも同様のことが起こっていることに自分は戦慄した。

AVライターのレビューで自分からすれば明らかに致命的な欠陥があるのに、その箇所を言及しないのは、そういう麻痺のようなものもあるのかもしれないと思った。

それは作る側にも言えて、制作者側からするとそういったユーザーの所感なんて、ものすごく枝葉末節に見えてくるんじゃないかと思ったりしている。
だからディテールに拘れないAV作品って多いんじゃないか。

たとえば「発射前45秒ぐらいはノーカット」なんていうのはヌキ目的なら当たり前の文法で、それが「うざい制約」として捉えている監督がいれば、その監督はあきらかに「チンコを握って編集してない」ということだろう。
自分のチンコを握り、その作品に入り込んで見ていたら、「発射前45秒ぐらいはノーカット」なんて必要不可欠なはずで、そんなことが麻痺して編集されてるんだとしたら、逆にそいつの方がエロをナメ腐っているということだろう。

AVは「抜くためのショットの積み重ね」といってもいい。
余計なストーリーやインタビューなんていらないっていうユーザーの意見があってもおかしくない。そのショットのつながりがエロを阻害しているならば、そこはおかしいという批難があってしかるべきだろう。

「映像におけるショットは文章で言えば単語のようなものだ」とよく言われる。
初見で感じた問題点を「ショットのつながりが悪い」と批判し続けなければ、見ている方もだんだん麻痺してくるんじゃないか。
そしてAV雑誌に書かれるレビューはどんどんユーザー視点から乖離しはじめる。

だからおかしいと思うときはおかしいと書いておくことにしよう。
そうしないと自分の感性が後退してしまう。

ただし自分のいっていることが妥当かどうかという問題もある。
だからちょっと勉強しなきゃとその手の本を読んでみたりする。

映画を見る眼映画を見る眼
(2005/06/25)
小栗 康平

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映画の文法―日本映画のショット分析映画の文法―日本映画のショット分析
(2004/02)
今泉 容子

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いくつか読んだけどこの↑二つの本が一番読みやすく、理解しやすかった。
小栗康平のなんかあらためて「泥の河」から見だしちゃったりして。

んでだ、ボヤキやマニュアルで「トランジション」とか「ミザンセヌ」とか「ディゾルヴ」とかそんな今まで使ったこともないような言葉を使いはじめるかもしれない。

そんな嫌味なヤツになっていたら、すみません。

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