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自他皮膜論 

近松の「虚実皮膜論」の「皮膜」を「ヒニク」とわざわざ仮名をふったりする辞書もあるが、「広辞苑」や小学館の「国語大辞典」は「きょじつひまく」を取っているようだ。
本来、どちらの読みが正しいのかはわからないが、どちらしろ漢字で書き表すなら「皮膜」の方がよく言い得ているように思う。

真実というのは常に皮膜にくるまれている。ふだんは覆われていてその姿はなかなか簡単に見ることができない。
「化けの皮」といった言い方もあるし、人間というのは皮の膜ひとつでようやくその姿をとどめているにすぎないのかもしれない。

そもそも「自分とは何か?」と考えたときに、自分の持つこの「肉体」というのはずいぶんあやふやな境界線でできていることに気がつく。

たとえば今、目の前に松屋のトマトカレーがあったとしよう。
このカレーはいずれ自分の口に入るとはいえ、いったいどの段階で自分の血肉になったと考えればいいのだろう。

舌の上に乗った瞬間だろうか?

胃に入った瞬間?

消化され始めたときだろうか?

「消化」と言ったって、どのあたりからだろう?

消化酵素がとりついた瞬間?
分解しだしてから?

完全に人間の吸収しやすい栄養素になったら自分の血肉になったと言えるだろうか?

それにより体内にできたウンコは自分の体の一部とは言えないのだろうか?
あれは体を通過しただけだからもとから血肉とはなってなかったのか?

それなら尿はどうだろう。
これは体の中で作られた排泄物だ。

いやもっとわからないものがある。
呼吸だ。空気を肺に取り込んで、酸素を吸収し、二酸化炭素を排出する。
この酸素はいつの段階で血肉となるのだろう。逆にはき出された二酸化炭素はどの瞬間から自分の肉体の一部でなくなるのだろう?

そもそも単に人間の肉体は、さまざまな分子を仮に集めて結びつけているだけにすぎない。だから始終、分子レベルで入れ替えを行いつつ存在しているだけとも言えるのだ。

人間の肉体というのは、いくつかの決まり事に則ってエネルギーを入れ替えつつ、常に再構成しているにすぎない。
もっともそれは素粒子レベルでいえばすべての物質にもあてはまることなのだが。

仏教ではこれを「空」という。
仮に集まった肉体を「仮」という。
しかしそれはなにもでたらめに集まっているわけではない。やはりなんらかの法則がある。それを「中」という。

この五体を指して自分という存在があるのではない。
その五体を包む「皮膜」は決して自分と他をはっきりと分かつ境界線とはなりえない。
むしろとりあえず置かれた補助線のようなものにすぎないのかもしれない。

この「自分だと思っている」肉体は、宇宙の塵のひとつとしてつながっている。
「自」は「他」なしで成り立つことない。他もまた自の一部であり、自もまた他の要素を借りて存在しているのである。

これを「縁起観」という。

「虚実皮膜」とは「自他皮膜」のことと言えるのかもしれない。 虚といい、実といってもそれは他人の目を意識して成立する概念であろう。

所詮、人の幸不幸は「他人とのつながり」の中で発生するものだ。
だからこそ「よくできた人間ドラマ」は、それが悲劇であれ喜劇であれ、人をなぐさめる力があるのだ。

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